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2010年3月1日更新(40号)

あかね雲    矢野 房子

亡夫がここに在すと手に取り印仏を一人し見入る久々にして
闘牛を「阿吽」で制す闘牛士何の世界も秘めたる呼吸
艶めきてスキッと()しき嵯峨菊のくれなゐ点じ(くう)を満たせり
嵯峨菊の深き臙脂のきわだちてそこだけまさに秋の金繍
赤のなき庭に嵯峨菊彩冴えてわが生き方を見守るごとし
花の図の散り蓮華もちて勇み(たう)ぶる粥のまろみに思はぬ涙
春来れば八十七才と意識する境地がすでに老いと云はしむ
あかね雲に裾横長きにしやまの存在(しる)しまぼろしのごと
東山の緑に向ふ車窓なり幾十年を通ひし道が
車降り北山杉の林立の目に(あらた)しく深しんとして
北山の杉林の外何もなし(すぐ)なる繁みに背中押されて
夏五山久しく目見(まみ)えず京に住み古りゆくままに頭より消えゆく
里の家ゆ「妙」の火の文字見えにしが家並の影に炎えてゐるらむ
とっておきの越酒ついに待ちきれず独りの膳にとくとくと酌む
大切な友より賜ふる越の酒瓶の重さを言葉に出さず
朝鮮半島(チヤウセン)の国境流るる鴨緑江渡りし駅に()を向ふる父
日本より帰りきたりし身勝手を一言も云はず迎へくれたり
晦日夜の柚子風呂なればゆつくりと浸りて香りゆさぶりにつつ
ここに来て甘えてくるる()のコトバ抱きて今夜の床に埋もる
賛美歌の重く流れてオノ・ヨウコ異なる画像も鮮しく見つ
額(ぬか)の上の(がく)のすゐれん今宵また涙わく程瑞々しくて
わが許に残りしはうた 否と云ふ声は誰が声うたこそ自然(じねん)
鴨川の鳶大きく飛び交へり今日の出逢ひに合するか汝
帰るさの夕陽まぶしむ時間帯癒さるるまで二人の会話
独り住むわれの運命(さだめ)は穏当に不穏ではなきところの安穏
茶の道に至る若きら集ふ夜の後の駄弁りに吾また若く
寅年の回り年すでに無縁なり終の置物(張子(はりこ))の大虎
同年の八十六の葬り日の三度つづきて奈落の()ぎる
餅花をじっと見詰むるわが耳にいつまでも艶もつべしとふ声
われ云はず人又云はずかなしみの終りに近き歳となりたり

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