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2009年9月1日更新(38号)

峰を越える    鈴木 禮子

サークルに行かずなりてより一年、断ちし体力の復元ならず
身の衰へ(さは)に覚ゆる日のありて、もはや戻れぬ場所も知りたり
坂ひとつ越えたることをうべなへば遠き曇天に白し綿雲
払暁のほの明るさに目覚めたり猫は餌を乞ひわが肩たたく
(ひと)(われ)が起きて立てるを二度三度ふりむきて猫はエサ場へ誘ふ
おのれ責めて鞭打つこともここまでと露けく青き紫陽花を挿す
こころ折れて乾泉の底さぐりゐし残りしは何雨のくちなし
カーテンの裏にひそみて味爽の猫はときめく朝がどっぷり
氷海を越えて来りし激情が気化なさむとす長息(なげき)を止めよ
(もだ)ふかく仕事を()とも道楽の域出でざれば愕然とせり
道楽に苦は相応(ふさは)ずとおもふとも虚しさ又も後追ひてくる
はつ夏の空さやかなるみづあさぎ吾は比叡の峰を越えしか
あぢさゐの既にさかりを過ぎたるをことごとく截る夏盛るまえ
蓮の花つぎつぎに咲く勧修寺(さま)かはらぬはかなしきものを
めでたしと聞けばたちまち出でゆきし若き日過ぎぬ白しゆふがほ
夢の中でよしなしごとを悩みゐき(くつがへ)るなよ葦間の小舟
わが生の余白にあかく咲くものかのびやかにあれ紅蜀葵(もみぢあふひ)
花ならば咲くべかりけり花びらは薄くしあれど凛として真紅(あか)
荷風翁いとしみし花と伝へ聞く紅蜀葵・(はす)、夏の大輪
蝉穴は個の塹壕のごとくにて八月の陽に死にゆきし兵
百日紅(さるすべり)あかく燃えたち(ひだる)さは背にこごりつつ国敗れたり
飽食の日本に棲みてたまさかに銀舎()の味わすられなくに
※銀舎利:敗戦前後のお米の別称
洪水に水漬(みず)きし稲を拾ひきて泥の味する粥も啜りき 敗戦まえ
『ムーランルージュ』古きむかしの映画にて貧しさは人の尊厳も消す
尿までも飲料水に再製す文明といふはどこか恐ろし
ブラインドふかく閉ざして朝焼けのときめきも知らず汚染人われ
美しく夢のやうなるスヰーツを舌に(のぼ)せてわれ足るをしる
生きゆくに照準とせしは何なりし 新しきこと、充たさるること
人間の思惟の連鎖のあやしさは波切りてゆく小石に似たる
氷水をくぐりし(鱧のおとし)など〔口福(こうふく)〕と呼ばむ夏の鉢もの

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