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2021年9月1日更新(82号)

老人ホーム    稻生 きみの

一人ひとりの身上書の厚くあり収まる書棚に「重要」の文字
入浴の用具を持ちて刻を待つ廊下は静か誰も話さず
食料品の販売の日はお喋りの声も明るく順番を待つ
盲しいたる姥びとゆっくり自室まで廊下辿りゆく午さがりなり
時にふと記憶もどるや老いの目に涙の光るをそっと見守り
口癖に息子()の名を言いて「明日(あした)は来る」と姥に面会の耐えて久しく
眼を細め紫煙のゆくえ追っている人ら憩える喫煙時間
「人間の尊厳もない」とう看護婦は居室見回り戻りて言うか
見舞わずに電話に安否をたずねくる家族にわれは関わりなけれど
人知れず枯れ木のように車椅子に逝きにし姥びと忘れられずに
命終りし親の引取りを八人の子供ら拒むこの現実は
ベッド一つがひとりの居場所枕辺を飾る写真に幼が笑ふ
日の暮れて窓に映るは自分なり「あんただれや」と声を荒げて
終える日に「ありがとうお元気でね」握手する手の温もり残る
「寮母さーん」呼ばれし声のよみがえる職退きし朝の静けさにいて
厨に立てば食事介助を思ふなり完食をして笑ってくれる
散歩にと亡き義母が来る夫の傍 杖をさがしてゆめ覚めるなり
昼寝しているかのような夫の顔 棺に呼ぶなり「もう起きなさい」
五十八年、共に生き来し歳月よ わが人生の勲章なれば
うしろ向きに靴を脱ぎいる夢の中「パパおかえり」と声はずませて
わけもなくなみだ目になる夕静か 亡きあと更に夫を恋うるも
押入れを暗室にしてモノクロ写真を仕上げし夫よ暗幕はずす
次の世も出逢いたき夫よ笑顔良き遺影の夫に話しかけをり
人気なき霊園に犬が迷いくる用あるごとし小雨の中を
寂しければさびしき貌を見するのみ八十路なかばに何を恐れる

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