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2019年12月1日更新(76号)

遥かなるもの    鈴木 禮子

同好の十数人(じゅうすにん)にか集ひしてこよなき時を遊びたりしが
「高架線」思ひ出だせば清くして桃源郷と吾は思ひき
残りしは同行三人(みたり)黙々と短歌(うた)綴りつつ はた口遊(くちずさ)
卒寿近き友が玉章(たまづさ)途絶えたり如何にかゐます心騒ぐに
一日(ついたち)もまた次の日も手紙(ふみ)は来ずただ事で無き君が沈黙
幸くませ、健やけくませ陸奥(みちのく)の君がバリトン吾まだ知らず
老いらくの友と果敢なき(すさ)びして幾ばくもなき時よ消ゆるな
わたくしの九十年目が過ぎむとし樹氷のやうな心音を聴く
死の床の母の面輪は穏しくて午睡のごとく穏やかだった
医師なりし義弟ひとこと「楽な死を僕は知らない。一度なりとも!」
怪我現場(また)く消えさり覚え無しあの時われは死ねばよかった
血圧を下げる薬と言ふなれど副作用あり失せよ眩暈
膨大な時間のロスを如何にせむたどたどしくも杖を頼みて
歳ともども抵抗力も筋力も萎えてゆくにか天災ぞこれ
わが友の闘病の短歌(うた)切なくて吾の知り得ぬ岐路(えだみち)昏し
遥かなる黄泉平坂(よもつひらさか)夢に見てここは何処だと友は問ふなる
気が付けば拘束衣着て生きていた字は書けねども吾にはわかる
三つ目の病院なのよと()が言へり記憶の消えし二か月の闇
老年は魔の刻ならむ 灰色で花も馨らず光も見えぬ
さう()しき在りの(すさ)びでなかったか()に介護され望む夕映え
霜月に入り一年は早かった半端な生は霧氷(むひょう)のごとし
薬品の副作用にて立ち眩む予期せぬ折の地震のやうに
介護ベッドにもがく幾とき首の根の上下動作は禁忌と悟る
夜深く路飛ばしゆく救急の車に吾は生きむとするか
身の不調一斉にして噴き出だす 津波にも似て人は脆しも
長々とベッドに在りて囚徒たり起きあがるさへ儘ならなくに
五十代胸熱くして夢見月 夫は仕事に()(うた)会へ
母さんと一緒になって良かったと()への会話の微かなる(つま)
絶対に部下を殴らぬ上官と風聞ありき亡き夫がこと
鈴木少尉、まだ若くして軍令を怖れざりしか(いさぎよ)くして
わたくしも又臍曲がり意に添はぬ事には遂に(うべな)はざりき

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