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2018年9月1日更新(71号)

雪の降るまへ    鈴木 禮子

生老病死、生きて見放(みさ)くる俯瞰図を短歌(うた)にするなと誰か云ひける
白き花の夜具に包まれ眠る夜は嵐も消えよ雨も静もれ
何の(とが)ありてか長く囲はれて身動きさえも遠き日の夢
あの路を曲りて家へ帰らむよ その朝なれど脚は動かず
記憶すべて消え失せたりしひと月は神慮なるらむ 過ぎてぞ思ふ
母さんの(まぶた)が少し動きたり 癒ゆるを信ずと祈りの言葉
「明日もまた必ず来るよ。お大事に!」ことば重ねし娘の手帳
日いちにちベッドに眠る侘しさをわが知らざりき雪の降る前
()なり、さなり愚かと思へど噴きいでて音なき時がわれを苛む
日の暮れは色濃くなれり 今宵また夢も見ずして醒めて黙して
薄紙を剥がすがごとき癒えゆきを泪と共に読む日記帳
「よく生きて此処まで来たね」と声のあり看護されつつ又(ひね)くれる
北病棟、本日も雨、鈍色(にびいろ)の空の(はたて)のあれは死の影
(つま)がこと思へば悔し丸五日われを握りし手の熱かりき
人工呼吸器わずかに夫を生かしゐてICUに厳しき音す
北国の友なる人のアリアなれ空揺すりつつ「愚痴るのはよせ!」
別れのうた歌はむとして涙ぐむ 再び出会ふことあらざれば
この()をば(さら)ひゆきしは「(やつ)」なりと涙の奥で笑みてゐたりし
若き子が(ひし)めき会へる(ちまた)ゆえ恋の鞘当てある日は覗く
みるみるに頬歪みきて濡らしゆく涙を君の真情(しんじょう)とする
「膝曲げて!足を延ばして!二十回!」若き声音(こわね)を幾ときか追ふ
スニーカー履き潰しつつ越えむとすリハビリメニューの重きを負ひて
美味しい物も食べたい、買物がしたい、()の病室の囚虜(しゅうりょ)ぞわれは
夜となりて繰り返し鳴る従軍歌 かなしみ深き旋律が刺す
耳元で嫌といふほど繰り返す幻聴すべて軍歌・鄙歌(ひなうた)
初めにね痛い目させて嫌はれる馬鹿ではなしと言ふ人間(ひと)の幅
「レイコさ~ん」われ呼ぶ声も遠くしてかの病院も悪くなかりし

   (平成30年4月4日 金子兜太氏 98歳にて逝去さる)
兜太(とうた)氏の(白鳥の歌)身にぞ沁む」歩き切れずもわれまた家へ
金子兜太、生涯現役、耀ひて巨星ひとつが燃えてゆくにか
決断はひたと迫りて九句あり 嗚呼とふ声を飲み込んでゐる

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