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2017年9月1日更新(70号)

異境にて    鈴木 禮子

身に添へる栄誉は不変然りながら喪ふ多き竜王戦か
微かにもさしぐむやうな老棋士を痛ましく観る無冠のわれが
真白にぞなかば鎖せるゆふがほの朝としきけば早うち萎る
黒滝の村くだりゆく暮つ方うす闇負ひてゆふがほの花
大輪の真白きが萎え亡き夫の忌の刻、忌の日また巡りくる
如何ならむ縁なりしかも夫婦にて三十余年は煙霧のなかに
死ぬる日の分かねば知らであるがよし澱みゆく血はわが止めがたく
癒ゆる日は再びなくて胸に貼るすきとほりたるビソノテープを
塩もダメ甘きもの悪しステビアの甘さと競ふ塩こそわれに
戦国の時世切なし塩をめぐる応酬在りて甲斐のいくさに
チャック開けしチョッキのやうな殻のさま蟬はその時ジジと言ひしか
文月二十日すぎて激しく蟬鳴けり一刻者よ(しょ)こそがいのち
飛来して息を止めたる落ち蟬の美しき死よ産卵ののち
短命な地上で命継ぐものに人許すなれその喚声を
息が出来ぬ あぎとふ魚の如くにて自づ知りゆく起坐呼吸まで
もう駄目と思ひたれども急場をば息保ちつつ酸素マスクを
「どうですか?」問ひかけられて安堵するまだ(いささ)かは生き残りなり
掴れと、立つからといふ子の指示に魔法の如くわが立ち得たり
肩貸してくれしわが子に叡智あり心に謝して吾は従ふ
老いたれば子に従への箴言よ人智はまさに連綿として
むつかしき老いの気分の解るほど実感として思ひいや増す
父が語り母の伝へし伝説を寝物語りに聴きしはるけさ
夜語りにもの聴くすべを習ひしか牡丹灯籠はた皿屋敷
語り物父にせがめばひとくさり「猫化け」噺 今日はここまで
(あか)土の裏道すべて異境にて眼で触れ足で探りてはゆく
健やかに働き得るがしあはせぞ芙蓉の花の美しき紅
(よはひ)かさねしみじみと聞く歌のあり出あひの時はさまざまに来る
宮 柊二「多く夜の歌」と詠みたまふ佳吟に酔ひて再びみたび
それぞれが生きむがための声は冴えバナナの叩き売りなどありき
洗濯物の取次店も無くなりぬ再編成の波ここにまで

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