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2014年6月1日更新(57号)

兵の日    稲生きみの

70を期に仕事終えにし夫共に深まる老いを思う日のあり
鳴きもせず身を一杯に膨らませ鳩は広場の寒風のなか
奥津城にひとり手を合わすわがほほを春が来たよと風の吹きゆく
突然の訃報にふるえ呆然とただ呆然と遠くを見つめし
商いは難しきものか魚屋の店主が変わるもう三回目
せみしぐれ止みし日暮れの静けさに無沙汰に過ぎし人思うなり
母のひざに落葉の彩いろのせやれば喜びしさま偲ぶ晩秋
花よりは過ぎにし日日の美しき金婚の夜を夫と語りぬ
幼児が玩具に遊ぶも無心なり夫はカメラをまた双手にす
久びさの和服の夫の姿良き他人行儀に屠蘇つぎくるる
足遠くなりにし信友の思わるる教祖130年のご霊地に来て
検査終え帰りしわれに「無理するな」精一杯の夫の声聞く
夢に見し義母は笑顔に話すなり何かうれしく夫に話せり
遠く住む娘が送り来しシーサーに声かけて夜の明かり消すなり
兵の日を詠みし俳句の数多く父の遺せる小さなノートに
青年の声にもの言う上海より電話をくるる孫に安堵す
花びらをそっとしのばせ病み長き友より快気の便りの届く
翔ぶことのかなわぬ亀が甲羅干す大和法起寺池の真中に
人身事故にダイヤの遅れをくり返し詫びる放送の日常ならんか
片思いで良いという老いが話すなり岸恵子のこと今も酔いつつ
母の忌に集ううからの顔見つつ「仲よろしいな」と僧言いくるる
入道雲の立つ大空に耳すます空の隅より蟬しぐれ降る
耳に残る娘のなみだ声強くなれつよく生きよとやり水しつつ
窓開ければ富士が見えるとこの度の赴任地よりの声の明るし
亡き母にいや似てこしか髪細くうすくなりしを鏡は映す
「幼子のようなまあるい腹を見せ」インスリン打つ夫の朝夕
疎開地に母は必死に働きぬ思い偲ばる夏近づけば
空腹に耐えて母の帰り待つ八歳の夏の日国敗れたり
砂噛みしを舌は忘れずしばらくを春のアサリの実をころがしぬ
夕暮れてわれひとり待つバス停にトトロのネコバス来るやもしれず

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