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2010年9月1日更新(42号)

わが茶釜    矢野 房子

茶球といふ砂糖の粒のとろけたりさっぱり感のいじらしくありて
「良きものを作ってくれました」と老紳士 乗り合せたるエレベ
小さき駅のエレベーターに乗ることが老いの鮮しき刺激となりぬ
これからのわれを変えたき迷ひ子はしっかりうたの道に帰らむ
すがりたきわれとわが身の疎ましく思ふことからのがれねばならぬ
ぼんやりと一日終るをくり返し何を急かすかハレルヤのうた
紅の花いっぱいに咲き側にゐて満足のなき性疎みつつ
白のまじる髪かきあげて ( ) に向かず ( ) を下げて車に出でゆく息子
おふくろよおふくろと言ひ一入に温きひびきは身に沁みとほる
脱力感全身に来て横になるこの器具何の役に立つのか
蝶は石にすがりて絶ゆと歌残れりかの石はいま 何処 ( いづこ ) なるべし
単純な日常の中わが鏡いきなり伏せてチャイム賑立つ
夜は淋し ( よる ) 美しと誰か言ふ窓明りしてわれに戻りぬ
田に学び田に遊ぶ農の若ものら ( そら ) 一色となりてはじける
クレープの店のやたらに賑はへば開店 三月 ( みつき ) のドアの明るみ
新しく電池入れ替ふあたりまえが小さき刺激 老いより ( さか )
半夏生の白き一葉一本の王者と思はむ庭辺を圧す
すがりたき甘えをしかと自省してわれの弱みを閲(けみ)してゆかむ
半夏生白き一葉鮮らしく夏の庭べにすくっと立てり
われのため画仙紙切りて水墨を描けよと強く叱咤す息子
息子 ( ) の元へ行く茶釜なり今更にさらりと渡し去るもの追はず
茶の道を親しむ男の姿勢見すと納得するもわれより放るる
「京料理七十二候」をひらくとき ( ) しき食膳の美意識に酔ふ
血管の切れたる手の甲黒ずむは老いのしるしか痣一つ増ゆ
夏さらば白き一葉 半夏生 ( はんげしやう ) 誰に見しょとの庭のひともと
板塀の蝉のぬけがらふんばって今にも消えむ炎暑のさなか
ハバロフスクの歌生々と高まりて雨のしずくに合ふが哀しき
友の来て冷えし八朔やうやくに剥かれて両手のしづく ( あらた )
Tシャツに絵をと請はれし夏の日の気迫いつしか暑さに消ゆる
なさむこと浮び且つ消ゆ縁側の午後の三時の椅子は魔ものか

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