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2008年9月1日更新(34号)

鍋島藩窯部落にて    矢野 房子

唐突に一人旅せむ伊万里目指し気負ひなく駅を乗り継ぐも良し
「昔から一人でどこかに行く()なり 信頼ならぬ」と母の溜息
そっと覗く吾に老いびと手招きて「あんたは運が良い!窯出しなんだ」
偶然の窯出しの日に出逢ひたりまさに一瞬、窯場に昂ぶる
山深き鍋島藩(えふ)部落あり なべてに耐えし隠れ陶師(すゑし)
一つ一つ陶を抱へて運び出す 離れ見続く窯場の重さ
二百余年窯の煙を上げつづけ磁器を守りし大川内山谷(おかちさんこく)
どっしりと窯場に据る青磁器をわがものとして抱かむと思ふ
まだ熱き鍋島焼の華器抱へ静かなる山の集落を去る
身に余るあまたの出逢ひ、わが裡に畏れは溢れ泪にじみ来
もしもわが詩歌づくりの薄らげば余生は静かと呟けば良い
一人(いちにん)を愛し終りてすべなくてわれがわが身の生き方きめる
百うん年店を護りし帳簿台今は憩ひの母系そのもの
疲労なべてほっこりと消ゆる古机これからも(そば)に付き合はむとす
ふいにわれ白き団扇に碧色のトンボ翔ばせり画ごころ戻る
いつまでもこのまゝ流れよセレナーデ明日は気の張る席が待ってる
森の中さまよふ闇に何処より風よりやさしきセレナード澄む
どくだみの白き(はな)びら門までのしばらく見つつ「愛してるよ」と
雨後の花赤くしっかり彩づきて初剪りあぢさゐ亡夫に渡す
一言に赤がいいねと云ひしひとに目覚めの紫陽花供ふる朝
絵を描くも(すゑ)も手芸も捨てて今うたの道のみすがりて生きむ
碧き夜のいつしかきっと星になれ只ただ惜しき人と合ふため
苦しみて掴みしものなきわが生涯(ひとよ)死にものぐるひの逢瀬も無縁
美しと云はしむる庭の半夏生白白とありてゆうなる群立ち
夏至なれば変化始る朝なさな清楚なる人の生業(なりはひ)のごと
()にこもる猛暑の最中(もなか)会報に八十路の訃報相次ぎてならぶ
物音の突然はげしき一瞬に灯を消し一人の夜半をかたまる
朝を割る蝉の初音のひびきたり夏をのり越せ夏のり越せと
和更紗の地味なる染に逢ふときに友の生涯を一入思ふ
茶を入れて亡夫が静かにまろめゐしこのマメ急須いつまでも愛し

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