目次

2006年9月1日更新(26号)

夏帽子    矢野 房子

九十九と九ヶ月(くかげつ)の生終へて今惑ひもあらぬ小さき面輪は
遂に来しこの葬の日に久しくを逢はねば娘の腰曲りゐき
人は皆泣かず悔まず遠き日の婦人会長(かいちょう)時代の遺影に対ふ
葬り終へ三日ぶりなるわが庭のあぢさゐ青く群立つあはれ
行かねばと気負ひてひとり広島へ行きて果しぬ亡夫(つま)との約を
粒々にまじりて小さき(はなびら)の粒あぢさゐの主張聞きゐつ
どう生きると今更構へずテーブルに紫陽花を置き夕餉倶にす
無限に湧く愛しき思ひあぢさゐに肩の荷おろし刻を忘れて
息子()のメール更に開きて字の奥を読まむとすなりいつまでも親
還暦を向ふる息子より何時の間に子の如くして扱はれゐし
つつましく風に浮く如き白き葉の半夏生(はんげしょう)われに静とり戻す
白々とゆれて今宵の穏しかり戸締りのあとわが夜の来る
伊万里焼の山里(さと)に触れむと一時間車窓に逸りつわれ若かりし
ゆきづりのわれに陶人(ひと)らは心よく果報者ぞと窯場に通す
大川内(おかち)三十年(みそとせ)前のかの一日わが初めての窯出しに遭ふ
大皿を抱へて確かむ呉須の色うめきの如き()き声ひびく
命終も泡のごとしと恐怖なし大笊にあこう口あけて並ぶ
唯一度われがわが為に号泣せし 姑との歳月終りし後に
夫のため声立て泣かず唯晩歌(うた)(よる)を怺えて心を交す
ホーム訪ひ人らと交はふ事終へし夜の白夢に入らむとすなり
ささやかな事かも知れぬ天花粉を手首までつけて夜窓も開けて
寝心地の良ければ氷枕重ね置き順備おさおさ(よる)を拒まず
萎えし蘭の根をほぐしやる初業(はつわざ)に葉芽青々と応へくれたり
葉を延ぶる蘭瑞々と朝光に捉へてわれの活力となる
京伏見の古りし旧家に友は生き独り娘の賢女でありき
陶道を教へてくれし友なりき病臥重ねて逢ひ得ぬままに
異人めく面だちの友 つば広き帽子かぶりて杳かなる(ひと)
帰省せし息子()山が見ゆるに安らぐとふこの京に永く縁保ち来て
生存者二百余名のその中に友が父上のゐます八月(戦艦大和)
今にして生存の苦を訴ふる人ら身近にありて八月

▲上へ戻る