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2005年9月1日更新(22号)

彩雲(三十首詠)    矢野 房子

生活の乏しきなかを高価なる和紙ふんだんに描きゐし花・花
独居にていつしか居直り十九年今更何をがたつくかわれ
みかん箱に蝶とぶ柄の和紙貼りてラジオの台とす 夜鮮らしき
「千葉に来るか」この母親を受けとるとふ話切り出す帰省せし息子()
おふくろよおふくろと云ひ長男の心根を知る()の一献に
何時までか親を生きなむ われに向く二人の息子の意図に触れつつ
ありがとうと幾たび云ひて屈するも老い負ひたれば今宵は覚めつ
特老の施設に頼み重かりし肩荷おろして発ちゆく吾子か
楊柳のさみどりの風吹きぬける四平街隅の公園の中
思ひつき一人旅せし少女なりきゲーテの詩集とかのあずま屋に
わが趣味をすべて満たしてくれし夫よ 泪するほど存在重し
とどのつまり我儘なりしか妻の役母親役のわが自負さへも
紋入りの包開かれうつしゑの「楳嶺」近くに初のおめもじ
重き画集 天上絵なる彩色と図柄の妙に瞠るしまらく
楳嶺を(おや)とし語る友ありて掘起こされし長きすぎゆき
天上絵は皇后化粧室に在りしとぞ思ひあらたに花々に触る
通夜をすませこよなく愛せし茶舗に寄り亡友(とも)が好みしコーヒー頼む
茶舗の主人(ひと)供華にコーヒーを挽くといふ両手にいただき仏前に戻る
鮮やかに(あけ)色ゆるる残り花しばらくを居り涼しき朝に
背をまるめ「哭き(びと)」仏前に泣き響む偉大なる死者と関りはなし
張りぼての白馬(しろうま)二頭供へゐて男発たしむ黄泉路駈けよと
卓上に並ぶは四季の彩りの麩の浮びたり一碗ごとに
次々と友の逝きたるこのま夏異文化葬儀を憶ふ久しく
終戦後六十年目の夏となりかの一景がいまだ焼きつく
没収の銃うずたかし シベリヤに向ふ寡黙の日本兵捕虜
無一物で沃野逐はれし満洲荒男(ますらを)の心身ズタと裂きて敗戦
薬なく医者みつからず妹の(せな)さすりつつ逝かしめし大地
大陸に在りて急逝の妹よ辛きにあまり触れずいくとせ
虹色の彩雲(あやぐも)に逢ひてたまゆらの佳事(よごと)のごとし息をのみたり
あゝ彩雲七色パステルのなぐりがき雲かたなびく光となりて

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