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2004年6月1日更新(17号)

満州物語 その二    矢野 房子

絢爛の忠靈塔前の大行進 学生われらに号令ひびく
夫々の学校に続く「朝日校」セーラー制服凛々しくありき
ノモンハン惨敗の武器山積する千代田公園に秋風のたつ
馬賊みな途絶え果てたる街あげて王道楽土の高足をどり 
流れ弾ヒューヒューと飛ぶ只中を避難所へ走る母若かりき
救急袋ななめに掛けて走りたり笑ひも生るる避難の教室
久々に同胞となす日向ぼっこ束の間にしてロスケに見つかる
背後より銃つきつけて連行さる露地に逃げろと夫は云へども
衣を売りに広場に集ふ日本人()も凍むる手にビロードのコート
引き揚げの団長受けたる夫なれば身重の妻など云へず従ふ
昨日まで親しかりにし満人が密告せしか倉庫あばかる
ギ・ギ・ギーと板戸は開き仁王立つソ連の兵の嘲笑う聲
女同士敢えて隠るる男子寮されどもロスケ嗅ぎつけて来し
壁に身を立てて息のむ寮室の通気口よりロシヤ語の罵声
ソ連兵の目を避け(おこ)すコークスの燃え盡くるまで内に潜みし
缶詰を初めて知るとふ野蛮人ロスケに負けしか敗戦の日々は
晨まだきデッキに集ひ逸りたつまたたく博多の灯の迫り来て
博多の灯は赤く大きく上陸の刻限にゐるわれらを照らす
初産の不安も言へず船底に身をまかせをり十二日間
ただ一途日本の土を踏まむため九ヶ月の胎児()と故国に向ふ
引き揚げの船尾にはためく日章旗さらば満洲潮風受けて
散り急ぐために咲けるか凌霄花(のうぜんか)王道楽土の(いろ)甦る
日本人(リーベンリヤン)とわれらを指差し近づきぬなつっこき顔になごむ入国
急行はいくつか過ぎて大石橋の駅標かすめぬ旧名のままに
在満の香りありありとリラの花本溪の街見下ろす丘に
中央に毛沢東の像立てど日本警察章そのままにビル
納骨の意思など通じぬ異国なればせめて墓処(はかど)の砂掬ひたり
山査子の串にさしたる点心を一度食べたし思へど果さず

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