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2004年3月1日更新(16号)

満洲物語    矢野 房子

チチハルのなべてを赤く凍らせて陽は沈みゆく昿野の果に
地平線の落日へ向け人々のかげろひてゆくそのシルエット
再びはまみえぬものを大陸の夕陽華麗とたれかいひたり
アランベルを鳴らして過ぐる一瞬をカラス翔び立つ大茜空
反照へとびたつカラス群団はポプラ裸木の大影のこして
八ヶ月の命かかへて明日は発つ落暉よさらばさらば奉天
看板の赤き房くぐる飯店のうからの夕餉は土曜の習ひ
浪速通りエミグランドの茶舗ありき香り満ちたる紅茶とイリス
鈴の音をひびかせロバの過ぎてゆくリンゴ園近き金州の朝
日々仰ぐ白塔のもと立ち竝ぶ煉瓦造りの社宅わが家
望小山(ぼうしょうざん)山頂に立つ小さき塔悲母の如しも そう 常に見つ
千山の仙境一面白々と山梨のはな春陽にかすむ
連鎖街揃ひのベールかぶりゆく少女われらの颯爽として
夏来れば潮騒呼びたる夏家河子(カカカシ)の若者の声耳に残れり
揚柳のゆるる湯崗子(トウコウシ)温泉ののどけき迎春 春蘭哀し
大陸の春は一気にきらめけり黄砂の去れば芽吹きめざまし
二百十日風雨荒ぶる庭隅の巣箱の蜂に身動きならず
黙々と父が巣箱を持ち上げて蜜採るさまを窓辺に見ゐつ
女王蜂に群がる蜂のすさまじく塊となりて飛び立ついづこへ
朝まだき「オロッシャパン」と声ひびく赤ら顔笑む露人のおぢさん
冬の街互ひに腕くみ行く仕草 夫との友情育ちし満州
滔々と流るる渾河冬さればスケートリンクとなりて賑はふ
雪眼鏡レンズの霜を丸く拭ひ登校の道は白く凍みつつ
窓ガラスの白き結晶煌めきて冬の褒美と湯船にひととき
国歌なる「新満洲(シンマンチャオ)」と胸はりて(うた)ひたることみごと幻
哀愁なくなべて捨て来し大陸と喪ひし時手繰り寄せたき

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