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2004年3月1日更新(16号)

陽だまりの椅子(三十首詠)    鈴木 禮子

旅ならずとも秋陽がずんとおつるとき心燃えたつ係恋のごと
(まばゆ)かりし歌人の歌をこの頃見ず病みたまふとぞ風のたよりに
足萎えの筈なる妻がある夜は背後に立てばもののけの姥 
変化(へんげ)して妻と言ふべき人ならず 根雪にきしむ介護前線
たどたどしき電話の声をきくものか「父さんがわたしを叩くの!」
お互ひに無理をするなと言ひながら鎌首を上ぐ無理とふ言葉
冠雪の愛宕山見えくれなゐの火伏せの札に火の季節くる
もうすでに泣ける歳にもあらざれば思ひに耽る陽だまりの椅子
残りしはただ静かなる生活(たつき)のみガラスに光る結露あやふし
北尾根の上空にある冬の雲 殻しっかりと閉じてねむらむ
守るべきもの殆んど無くてひそやかな眠りの中に意識をひたす
猫を飼ふ隣人ありき 年明けの死を荘厳し寒月は照る
三角顔の少女市井(しせい)に溢れたり瓜実顔の美少女無きか
「ネコばあちゃん!」と飛びこんで来た旋毛風(つむじかぜ)そのくれなゐの頬柔らかき
()りて消えてゆきける観客の最後の一人の曲るを見をり
シーザーの今際(いまわ)の声が聞えくる 人はもとより頼みなきもの
屈すれば眼に追う鳥のあげひばり吉兆をわが捉へむとする
その先のこと知らねども差当たり米研ぎをれば遠吠えのする
「痛ければ手を挙げて…」との指示なれど逆ではないか歯医者せんせい
韻律に乗せて想へば短歌(うた)となるあかとき露に濡れしひとあり
ストーブの前でポタポタに眠る猫 もう十五年あまりが過ぎる
遠き人に今日は手紙を書きやらむ二月はかかるときかと思ふ
氷紋をつばらに刻むぼたん雪止めどなくして玻璃戸のむかふ
たましひの汗に淋しく背の濡るる言訳(いひわけ)をただ長く聞きをり
梅の花さりげなく咲く青谷に間伐(かんばつ)の枝は売られをりたり
早春の私鉄沿線にうす陽さし変らぬ景がゆるゆると流る
山城の淋しき町の谷窪に生活の色濃ゆくしらうめ
黄の莟つぶつぶとして美しき(あをもじ)といふひとえだを購ふ
湧き上る烈しきものの今は有らず吠ゆることなき犬の如きか
短歌(うた)も絵も己れを描く(わざ)にして自己愛といふよるべなきもの

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