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2010年12月1日更新(43号)

ここまで来れば    矢野 房子

ぼんやりと一日は終り夜が来るこのくり返しこれが老なり
わが駅のエレベーターに乗ることが刺激となりてこれから生きむ
友来ると電話のあればクレープの店浮びたりまだ三日のち
( まなこ ) 光る毛糸の小ぐま引き寄せて偕に ( ) の時耐へてゆかうと
夜半ひびくアンコールワットの発掘を視野にありありと展げてくるる
板塀にいまだ蝉がらしがみつく暑き 日日 ( にちにち ) 終りといふに
死に顔のわれの眉毛を描く役を妹に頼みて安堵すわれは
車押すを恥づかしいとは思はぬに年上の友いまだ抵抗す
きびしさを避けて来たかもしれぬわれここまで来れば生き方となる
徳島の若き友より電話受けありがとうと言ふしばらくの元気
日傘さす自転車行き交ふ庭の外ひなか見て居り時間帯なく
急かさるる事なき優しさの裏に吾を包みゆく老あり哀し
縁側のすだれ揺れ居る午後三時海辺の水をしきりに恋へり
全開の窓明るみて時間なきひと日の始るたった一人の
メモ紙に黒髪一本落ちて居り大切な人の放るるか一本
大切な人に降り居む盆迎へうつつの歳を思はず発す
望郷の遠き 満洲野 ( ますの ) は華なりき日本人とし日本に居るも
炎天を好みて咲くか朱の花かすかにゆれてトランペット吹く
優しみを見するコトバのしみる宵いくどか ( かしら ) 受話器に下げつ
門前を行き交ふ車の気配ばかりさびしき時を今日も過しつ
「椅子ではない これが疲労の原型だ」この一行に惚れて読みつぐ
泥にまみれ風に吹かれて ( すゑ ) の道ひとすじに来し憲吉の図よ
さかづきを干せば独りの ( ) の炬燵 邪魔の入らぬ至高の時ぞ
『北斗の垂直が樹木の精神』短詩はげしく心をゆする
ボロのやうに生きてるだけではつまらない嘔吐か叫びか吾には無縁
レントゲンの脳内写真に「健全」と医師は言ふなり素直にならむ
こんなにもイライラ感の募るともわが脳傷むと気にせずゆかむ
いちにんの若き ( ひと ) をば逝かしめて見るわが鏡つひの顔なり
嫁が友の河野裕子の壮絶な死はいたからむ触れられずをり
河野裕子の終なる記事は寂しくて一回きりでもうわれ読まじ

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