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2007年6月1日更新(29号)

アジア号    矢野 房子

旧満洲(まんしゅう)新聞記事のクーニャンのポスターが呼ぶ大陸の風
満洲っ子の絵となる甘き二十年霧のごとくに()より消えゆく
侵略の烙印押され追れにし日本人(にっぽんじん)は日本に帰る
アジア号の画面大きく迫りたれば刹那に立って号泣する父
アジア号の鉄の模型はどっしりと満洲時代の父かと思ふ
父母共に(しか)と土掘り勲章を(うづ)め入れたり(よる)明けぬ間に
六十年凍土に眠る勲章の六個は父の栄光の証
亡夫(つま)が愛でし備長炭は炭かごに埃にまみれ静かに在りぬ
昼下り、老人ホームの陽の下に駄弁る人らのほころぶ時間
ケアハウスのステンドグラスの陽の下に頬寄せあひて花咲く時間
さしかかる電車の窓ゆ手を振れるわれらに応ふ余部鉄橋
ガラス越しの赤呉須徳利、撫ぜたきを押さへて永く陶なる世界
於里遍(おりべ)碗 織部スタンド 盧山人(せい)の奥処にに吸ひ込まれゐつ
偶然に人ゆ貰ひし経緯(いきさつ)を友は語れり蜂蜜壜(はちみつ)重く
いつの日か滴々と溜めし蜂蜜の琥珀色光る厨の棚に
ともかくも愛深き友深切に動き居るなり病身()も顧りみず
()の甲の皺をさすれば波になりはた襞になり平穏を生く
「それがパパの優しさなんよ」われに向き弁明をする孫の優しさ
「よそ者は入れますな」とふ(はは)なりき 解らぬままに陰もなき今
新妻の、草もちを手に持つしぐさ口元までを見惚れて居たり
若きらの残してゆきしチーズケーキ冷めたる一個に紅茶を入れて
まっ白き富士山まぶし窓一面に大きく迫り車中どよめく
無心になり五月の窓に富士山を一期の夢としてただ追ひてゐつ
「シクラメン終ったのね」と花摘みて(つひ)のわが身を見送るごとし
長病める(はは)()取りの明け暮れに鉢植え薔薇を育てる若さ
覚束なき足といつまで付き合ふか()は言へど()を運びくれたり
わが五体夕餉の後に横になり今ゴーゴーと血の造られむ
さば寿司と筍づくし今既にわが体内に血の造らるる

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