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2006年12月1日更新(27号)

星降る夜    矢野 房子

隣家(となりや)の窓あかりして小夜床にわがひめやかに眠りつくまで
埼玉の孫も三児の親となりわれは老いのみ愛しめばよし
写真(うつしゑ)の夫に言葉を先ずかけて今日の予定をつぎに確かむ
やうやくに角を曲がればわが屋根に朧月高く淡々と在り
写真(うつしゑ)はひかりゐし友の笑顔なり永眠といふ唐突の日に
わが漬けし茄子(たう)ぶれば紫の艶ほれぼれと今宵の主役
思ひつきの片付け終り香り良きコーヒーたててわが仕上げとす
蒼空と黄色の稲田を分つ中道(みち)、秋ひとりじめに昂ぶるわれは
上善(じやうぜん)如水(みずのごとし)とふ越後酒(えちごしゅ)をくれたる友は吾を知りゐて
強いなど人にいふなと云はれしが(しゅ)に逢へば遂にわれを忘るる
人ら皆寝入る深夜をいやに覚め居直るものに冷酒はやさし
独居者のふとん丸洗(あら)ひをすすめられ素直に受けたりまだまだ死なぬ
あれ程に備前好みてありし亡夫(つま)伊部(いんべ)は遠くなべてまぼろし
棚に並ぶ備前の(すえ)はそれぞれに語りを秘めぬとびらの奥に
電子辞書新たに置きて八十路われ肩の力を降して挑む
失明せし片目とつき合ひ七十年瞼つむりて隠す術持ち
アジア号で大連の夕陽身に浴びて痛み癒せる一日(ひとひ)のありし
わが行為とがめず赦す母の念 その大きさをいま知らさるる
ほんのりと朧月にいまま向へばわが身の不足消えさりてゆく
廃校の教室喫茶閑散と老いふたりしてコーヒーを飲む
絵画ならぬビラ貼るあたりざわめきて若者ら一行入り来りぬ
観光地を赤き人力車(くるま)の走りゆく かの遠き日が一瞬戻る
アカシアの風甘き路を通院すその時ばかりは洋車(ヤンチョ)に乗りて
夜はしかと()にこもりゐる余生なりたまには星降る時もあらむに
湯豆腐の今宵は(あか)のミニ杓子 好みし亡夫のしぐさの浮ぶ
ゆっくりと豆腐をふふむこの時間こよなきものぞ網杓子光る
刺激とは毎日変る事なりといふ変るものとはいまさら何ぞ
陸上の育成われの歌道にも通じむされど甘きが阻む
青春のその余りなるうたの道ただしなやかに光掬はむ
赤彦の書をむさぼりし大陸に初心のうたは露と消えたり

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