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2006年3月1日更新(24号)

劇果てて    矢野 房子

一つ言葉零せば次々零るるを吾恐れたり何時か解けよと
大吉の絵絣の文字(しうとめ)の手織りし糸の朽ち初むる見つ
百年は優に越えたり絵絣の捩れそそける(さま)また()しき
闘ひと平穏なべては透明に姑とわれとは嫁同志なり
良き文字をわれに残しし(はは)の暖簾ほのかにありて倶にながらふ
雪ふぶき(かす)む山林 ひた走り敦賀を過ぎて白皚々と
十二月に珍しといふ雪しるき越前敢へて女ふたり旅
にび色の越前海岸みとどけて車窓にたのしむ雪切れるまで
窓の辺に光集めてシクラメンの赤こそ一日のよりどころなり
劇果ててあゝいふ風に年取らむと語り居し夫若く逝きたり
金婚をつひに迎へずその日より長く生ききて冷ゆる雪の夜
十二月のわれら婚日も遠くして孫三人のぢいぢとなる息子(こ)
洋花の間に小さき盆梅を置けば枝()ちりんと誇張す
友が話つづく合間を点つる茶は少し多目にみどり豊かに
雲走り波走る果の茜富士 駿河の海ゆ見放(みさ)くるひかり
膝痛の限界怺へ帰るさにわれに不意なる風花の舞
生き方は下手と言はれぬされど夫は上手(うま)く生くるなと強く諭しき
紅梅の一番咲きを迎へたり奇しくも夫の命日の朝に
()さき()にちりばむる莟春待ちの息吹を見する紅のふくらみ
子育てはすでにまぼろし還暦を迎へし朝にわれの保護者とふ
次々に用事をこなしほっとする間なく署名の依頼届くも
さあ起きようひとり気合は朝々の指針か知れずずっとこれからも
尋ね得ず気にせし病臥の友の訃に打ちのめさるる責めと悔いとに
水仙の〔倒れ〕起してやるせなし友は吾より十才若き
槙の木の綿雪はらひ時々は夫が化身と思ふことあり
納骨せし夫への思慕は高野槙の苗木となりてさ庭に来たる
かの苗木五倍の丈に茂りたり十九年目の春陽に青く
電話でさへ友と話せる時あらば存分にわが裡をさらして
千両の根付かぬ庭に樫立てり実生の強きメッセージは何
大陸に住まへば遥か祖母(おほはは)の膝知らぬまま生ききしわれか

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